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修験道の開祖、役行者を祀る
遠州役行者堂。
江戸中期には遠州における
役行者信仰の拠点となりました。
行者山からの眺め
View from Gyoja yama
本堂向かって左側、七十段の石段を上ると天神社があり、天神社の横には古墳時代の円墳、長福寺古墳跡があります。その先へ進み、赤い灯篭の立つ石段を登ると行者山山頂です。
赤い鳥居の奥に建つ「遠州役行者堂」の前からは原野谷川中流域に広がる掛川市街地を見渡すことができます。









遠州役行者堂
Ennogyoja do

行者山山頂にあり、役行者尊を祀る遠州役行者堂は、江戸中期、明和3年(1766年)に再建されました。昭和60年(1985年)、役行者尊大開帳(1986年)に向けて、古いお堂を保護するために外側から新たな建物で覆う「鞘堂方式」で改修を行っています。


鞘堂方式による、既存の古い行者堂とそれを覆う新しい建屋の境目

行者堂内から見る鞘堂の境目

昭和60年の鞘堂方式での改修時に外された古い行者堂の瓦

長福寺にある古文書には「比叡山座主智証大師(円珍)により中興、比叡山別院として遠江を二分する勢力を有す(883年)」という一文があります。智証大師が役行者を篤く信仰していたことから考えて、この時期より役行者尊をお祀りしていたと推測され、その背景により「空を飛んだ釣鐘」伝説(1037年)につながるものと考えられます。

明和3年(1766年)の遠州役行者堂再建は、室町時代以降の戦乱により途絶えていた役行者信仰が復活する契機となりました。長福寺の役行者堂は遠州における役行者信仰の拠点となり、各村落で「役行者講」が結成され、講による集団での大峰山登拝は昭和30年頃まで行われました。
堂内に飾られる大峰山登拝記念写真

行者堂奉納燈籠 嘉永2年(1849年)両山講中供養

役行者尊像
Statue of Ennogyoja
堂内に祀られる「役行者尊像」は奈良で作られたという遠州最古の行者尊像で、33年に一度開帳される秘仏です。
地区の個人宅に伝来する古文書によると、明和3年(1766年)に「当山守護役行者尊並両鬼像」を京仏師八木治郎左衛門に依頼し、大峰山上で開眼供養を行った上で勧請、これに合わせて役行者堂も再建されたことが判明しました。
これを機に新たに縁起がまとめられ、寺に伝わる明和3年の『遠江国佐野郡原田郷安里山長福寺略縁起』版木が作られたと考えられます。
行者尊像の厨子の右側に祀られる修験道の守尊「蔵王権現」像。遠州役行者堂を建てた際、一緒に祀られたと考えられます。
| 役行者尊とは |
正しくは役小角(えんのおづぬ)通称として役行者(えんのぎょうじゃ)。
修験道の開祖と云われ、飛鳥時代から奈良時代(7世紀~8世紀前半)に実在した人物です。
山岳信仰の隆盛と共に役行者と呼ばれるようになり、その他にも『役優婆塞(えんのうばそく)』『神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)』などの呼び名があります。
伝説では、役行者は不思議な力を駆使して空を飛び、野山を駆け巡り、鬼神を自在に使役したと云われています。数々の不可思議な事績を遺し、偉大な修行者として崇められてきた存在です。

| 修験道とは |
山を聖域とし、そこで修行することによって神秘的な力を得、その力によって自他の救済を目指そうとする山岳信仰を基本とする宗教です。修験という名称は、『修行して験力を顕す道』であることから名付けられたものです。
日本古来の山岳信仰に、仏教の教義・修行方法を中心とし、道教・儒教・神道・陰陽道・民間信仰を取り入れ形成されたもので、日本独自の宗教です。




| 33年に一度の役行者尊大開帳 |
お寺に保管されている古文書『遠州行者尊御伝記』によると、御開帳の最古の記録は西暦1788年(天明8年)まで遡ることができます。1788年より数えて8回目、 230年の歴史を誇る大開帳は2019年(令和元年)に行われました。
遠州役行者尊 御開帳の歴史
1788年(天明8年)
1821年(文政4年)
1854年(安政1年)
1887年(明治20年)
1920年(大正9年)
1953年(昭和28年)
1986年(昭和61年)
2019年(令和元年)
安政年間の開帳札

1986年(昭和61年)の大開帳時に作られた、釣鐘を持つ行者尊像

| 2019年 役行者尊大開帳の様子 |
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